カバン・袋物・帆布加工一式 一澤信三郎帆布

信三郎のええかげんな話

Date 2017.01.01

#62 酉と酒

「いざや寝ん 元日は又 翌(あす)の事」(蕪村)
明日は明日の事、と・・・ぐっすり眠り、爽やかに目覚めました。
皆さま、明けまして御目出度う御座います。
本年が、皆さまにとって平穏で幸多き年でありますように。

京都は、「けったいな人」がそこかしこに生息してる街です。「けったいな人」がありのままに生きていけるのが京都なんです。
ところが「けったいな人」が人の上に立って、権力を持ったらえらいことになるんです。
「けったいな人」は、街の片隅で、勝手気ままに、無為に生きてるんが似合うてるんで、 “偉い” 人になってしもうたらあかんのです。そうなったら「けったいな人」とは言わんと、「香具師(やし)」や「独裁者」になってしまいます。

せっかくの “酉” 年、今日は「けったいな友人たち」と “酒” を一献。
本年もお引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます。

Date 2016.12.07

#61 大きな古時計

20年余り前の休日、いつものようにぶらぶらしていると、寺町通りで、古い時計が並んだ小さな店を見つけました。なんとのう、覗いてみると、薄暗い店の奥に狭い工房があって、店の壁にいくつかの掛け時計が並んでいました。聞いてみるとほとんどが外国製で、100年以上も前の時計ということでした。
ねじを巻いて振子で時を刻みます。時を知らせる、“ ボーン、ボーン ” という音が何とも言えずゆったりしていて、すっかり気に入ってしまいました。
最近の電池で動く時計とは違って、少し進んだり遅れたり・・・と、癖はあるようですが、1分1秒を争うような仕事はしてへんので、私にはこれが似合うてます。店の1階の柱に掛けていますが、ドイツの「グースタブベッカー社」製で1890年ぐらいのものだそうです。打ちっぱなしの店舗に、時報が優雅に響きます。
その後に、またおもろい時計を見つけました。店の2階に掛けてある時計です。達磨のような型で、何と月と日付と曜日を表示します。閏年もあるし、毎月の日数も違うのに、どうやって合わしてるんやろうか・・・。私の頭では皆目わかりません。ただ、時々くるって調整してもろうてますが、それもまたご愛敬です。これはアメリカの「ISAKA」製のトリプルカレンダーで、1900年ぐらいに製造されたものやそうです。
最後の一つは、昔からうちに伝わる、100年以上も時を刻んできた時計です。
アメリカの「Waterbury co.」のもの。やっぱり1890年ぐらいのものらしい。以前に時計に詳しいお客さんから「これは、キッチンクロック」と言われました。アメリカの庶民が台所に置いてたもんなんでしょうな。
うちの時計は「大きな古時計」の歌のように100年で終わらんと、まだまだしぶとう動いてます。機械時計は、コンピューター制御のもんと違うて、いつまでも修繕して使えるんです。
私は部品交換も利かへんし、深酒やめて、もう少しへこたれず長持ちせんと・・。

今もそのお店は東大路新門前を西に行ったところにあって、いろいろな古時計が、様々な音で時を知らせています。
http://furukabu.com/

Date 2016.11.09

#60 お神輿さんが目出度く元のお姿に

うちの氏神さん粟田神社は、貞観十八年(876年)に創建されたという、由緒正しい神社です。神輿は1トン以上もある威風堂々とした立派なものです。重いうえに担ぎ手不足で神輿の渡御は1959年から40年以上も途絶えていました。
それが粟田祭の1000年祭を機に復活したんですわ。
その神輿は、文久2年、約150年ほど前に作られたものです。さすがに長い年月を経てそこかしこに傷みが出て、いっぺんここらで大修理をせなあかんなということになりました。彦根の工房で修理してもらうことも決まって、さて、修理費用を集めんならん・・・。一年がかりで氏子や賛同者の皆さんの浄財が2000万ほど集まりました。欠損したものを補い、新たに渡金(金メッキ)を施して、今年のお祭りに燦然と輝くお姿で戻って来はりました。そやけど、伝来の金工・木工・漆芸などの技法がこれからも伝わっていくんか心配やなあ。

屋根の上には、“宝珠” に代わって華麗な “鳳凰” が!!不思議なご縁で先代の神輿が滋賀県の神社に納まっていることがわかって、お蔵から長年出せずにしまったままの神輿から、鳳凰を有り難く譲っていただけることになりました。その鳳凰が元の粟田の地に150年ぶりにお目見えすることになったんです。ところが100キロ以上も重うなったうえに、鳳凰さんのお陰で高さが大分に高うなりました。神社の鳥居をくぐれるやろうか、青蓮院の勅使門にぶつからへんやろうか・・。色男で力のない会長の私は、ハラハラドキドキでした。
いよいよ10月10日、朝から快晴となって、眩しいぐらいに金ぴかの神輿の雄姿が青空に映え、大神さんのご加護で鳥居も門も無事にくぐることができました。大勢の担ぎ手が威勢よく力を合わせてくれはったことは、言うまでもありません。
私は今更修繕しても20代には戻れへんので、そろそろ若うて力のある色男に、会長を譲りたいもんです。

Date 2016.10.06

#59 ファルマコン ’90

左:フランク・ステラ/ Frank Stella 右:フランチェスコ・クレメンテ/ Francesco Clemente

現代美術というと、“おもろいけど、なんや、つかみどころが無うて、ようわからんなあ” と思ってるのは、私だけやろうか・・。
何と25年以上前に、うちのかばんが現代美術のキャンバスになったことがあるんです。
1990年の夏に、幕張メッセで大規模な国際現代美術展があったんですが、もう覚えてはる人も少ないやろうなあ。現代美術と帆布かばんの邂逅、モダンとトラッドとの出会いでした。
現代美術に触れたことのない人に、作品と一対一で向き合ってもらい、そこから何らかのエネルギーを感じて欲しいと、名古屋のギャラリーが企画しました。

幕張メッセの広大な場所(13,500㎡)に、作家たちの作品を展示したんですが、バブルの時期とはいえ、莫大な費用が掛かったのでしょう。その費用の一部に充当しようと、10数名の現代作家さんたちが、それぞれの作品をスクリーンプリントしたかばんをサイン入りで、各自が50個づつ作って販売することになりました。そのかばんの縫製を頼まれたんです。
まず、裁断した帆布生地をスクリーンプリントの業者に送ります。作家さんが描いた原画を、厚手の帆布生地のかばんにスクリーンプリントするのは、色数も多くなかなか難儀な作業やったそうで、39版も重ねてある作品もありました。作家さんの中には、金属の塊を貼り付けた人もいはりました。かばんに原画を描いてくれたのは、「フランク・ステラ」「フランチェスコ・クレメンテ」「レイ・スミス」「ジェフ・クーンズ」「若林奮」「高松次郎」さんなどでした。
なかでも、「ジェフ・クーンズ」さんの作品は、男女が裸で抱き合うてる絵が描かれていて、職人たちがくらくらしながら縫製してましたわ。
この時の作品たちと比べたら、この秋にうちが出した「日と月」紋は、和で静寂やなー。
その折、最も高価やったかばんは、ひとつ50万やったそうで、かばんと言うより美術品ですな。そのかばんたちは、今どこにあるんかなと、ふと気になります。

Date 2016.09.09

#58 永さんのこと

8月30日に、東京の青山斎場で永六輔さんのお別れ会があり、その後のお別れライブにも行ってきました。懐かしい顔ぶれの方々のお別れの挨拶が、どれも心がこもっていて、みんなが永さんのこと大好きやったんやなー。ええ会でした。そして、「子供を飢えさせるような戦争は絶対したらあかん」という宿題を、私たちに残して旅立って行かはりました。

永さんとは、1991年に親父が「職人」というテーマで対談して以来の長い付き合いです。その頃、永さんは50代やったと思います。頭は角刈りでがっちりしてはって、偉丈夫な方やなあというのが第一印象でした。それまでは、かばんは持たんと風呂敷包一つで旅に出てはった永さんですが、うちのかばんを気に入ってもろうて、それからずっと使うてくれはるようになりました。

その後、無理をお願いして、永さんにうちの日本手拭いのデザインをしてもろうたり、「布包」と言う字を墨書してもろうて店の暖簾にしたりと、いろいろお世話になりました。「原稿料はどうさしてもろたらよろしいか」とお尋ねすると、「隣りの旨い焼き芋でいいよ。」との答えでした。そのうち隣りの焼き芋屋さんは廃業して、借りはほとんどお返し出来んままになってしまいました。

東日本大震災の復興支援に、うちのかばんに絵を描いてオークションにかけ、全額を寄付するという企画にも賛同してもろうて、かばんにトンボの絵を一面に描いて持ってきてくれはりました(ええかげんな話 #12 永六輔さんと)
“トンボは決して後退しない、まっすぐ前にしか進まない” トンボの柄がお好きな方でした。車椅子になっても、前に前に進んではった永さん。そう言えば、尺貫法廃止に体を張って反対してくれはった。
お陰で、うちでは今も尺差しが現役です。
パーキンソン病に罹らはっても、「僕は、パーキンソンのキーパーソン。」と笑いにしてはった。
照れたような笑顔に、もう会えへんと思うと、寂しいですなぁ。 

生きているということは 誰かに借りをつくること 
生きてゆくということは その借りを返してゆくこと 
誰かに借りたら誰かに返そう 誰かにそうしてもらったように

永 六輔