カバン・袋物・帆布加工一式 一澤信三郎帆布

信三郎のええかげんな話

Date 2017.11.17

#74 緑の手

うちの工房の屋上に、小さい庭があります。空いたスペースに、いろんな好みの草木を植えています。初めて訪れた五島列島にある久賀島(ひさかじま)の崖っぷちに、強風にさらされながら黄色い菊が凛々しく可憐に咲いていました。その過酷な環境はまさに “疾風に勁草を知る” でした。
一本だけ持ち帰って植えたら、知らん間にぐんぐん増えて、狭い庭の特等席を席捲しています。居心地が良かったんやろか。野生種の菊なんで、ええ香りがするんです。

毎日水をやりながら「きれいに咲きや」と声をかけてると、毎年花芽の多少はありますが、よう咲いてくれます。
春先は、マンサク、サンシュウ、ミツバツツジ、笹百合、梅花うつぎ、夏は山紫陽花、桔梗や吾亦紅(われもこう)、宗旦むくげ。秋は、貴船菊や江戸ホトトギス、笹竜胆(りんどう)もたくさん花をつけてくれました。冬になれば、侘助の白や薄桃色の花が楽しみです。藪椿も素朴で風趣があります。
花が終わると、「ご苦労さんやったな、来年も頼むえ」と、肥料をあげます。たまにメジロが “つがい” で訪れてくれます。

花を育てるのが上手な人のことを、「緑の手を持つ」と言うそうなんやけど、女性との関わりは、なかなか花のようにはうまいこといかへん。花が育つように女性もうまいこと育ってくれたらええんやけど・・。
花の好きな友人といつも言うてるんです。「花はええなあ、文句も言わんし、カードも使わへんし・・。」

Date 2017.10.16

#73 永遠のランドセル

戦後の混乱から、日本が漸く立ち直りかけたころに、地元の粟田小学校に入学しました。その頃はどこの家も子だくさんで、1クラスが五十人ほど、一学年で5クラスあったように思います。
宿題はほとんどなくて、家に帰るとカバンを放り出して暗くなるまで、近くの白川や東山で遊び呆けてました。それでも遊び足りんで、夕飯を終えるとまた路地に集まってメンコやビー玉をしたりしてました。塾もあらへんかったからほんまによう遊んだもんです。
家が商売してたんで、そろばん塾だけは行かされました。ゆるい先生にさぼり癖のある生徒で、ものにならへんかったなあ。
革のランドセルが出回り始めた頃で、たくさんのピカピカの1年生がそれを背負うてたんで、羨ましくて親にねだった覚えがあります。私のは帆布製で、たぶん兄のお古やった。親父としても矜持があったんか、うちの方が軽うて丈夫やし、いつまでも使えるでと作ってくれたんやと思います。
うちの娘の時も、もちろん帆布のランドセルを持たせました。今は孫も帆布のランドセルを使うてるんで、三代で使うてることになります。
帆布のランドセルは、使わなくなればリュックとして旅行やハイキングにも使えます。大学生になっても使うてるお客さんもいはります。どれだけの思い出が詰まってるんやろうねえ。
ランドセル型は、近頃年齢を問わず、また外国の方にも人気です。
ところでこの集合写真ですが、どなたかの記憶にありませんか?
下手なパクリです。(写真家・植田正治さんへのオマージュです。)

Date 2017.09.25

#72 使い込んだら

近頃は、安ければ安いほどええ、だめになったらまた新しいものに買い替えたらたらええんやという風潮です。
そんな中、「うちのもんは使い込むほど味が出てくるので、長く使い込んで自身の分身のようなかばんに仕立ててやってください」と言って買うていただくのは、風変わりな店やと思われるかもしれません。
うちのかばんは綿・麻の天然素材でできています。
ナイロンやプラスチックのような化学製品は丈夫で変色もしませんが、新品の時がベストの状態で、徐々に汚うなって、劣化してきます。
綿や麻も、もちろん最初はきれいですが、使い込むうちに柔らこうなって、体に馴染んできます。日に焼けて色は少しずつ薄くなり、生地も擦り切れてきます。それは、長年使い込んで、ええ風合いになって使いやすうなったということなんです。それでも、とことん傷んだら、持ち手を新しいものに取り換えたり擦り切れたところに布を当てて修繕します。一部分を補修するだけで、不死鳥のように甦るかばんもあります。
そやけど、生地全体が弱ると、修繕しても、丈夫になったところの隣が、また破れてきます。そうなると、「すんまへんなあ、限界ですわ。使い切って成仏させてやってください」と修理をお断りすることもあります。
最後には土に還るんで、綿や麻の帆布は地球にも優しい素材なんです。
長い年月、苦楽を共にして、ええ人生を歩んでええ顔になってはる人のように、使い込んで飽きのこない、ええ顔のかばんに育ててやってください。
わが風貌は、風雪に耐えてきてはいますが・・、未だお見せするには値せずです。

Date 2017.08.23

#71 知ってる店


京都では若い料理人が次々と出てきて、新しく店を構えるんで、この頃は、とんと知らん店が増えました。
私も昔から通うてる店が何軒かあって、しばらく行かんと忘れられそうなんで、たまに「生きてるか」「こっちもなんとかかんとか息してるで」と言うつもりで、ぶらりと寄ります。そんな処がいくつかあるんで、そこをぐるぐる回ってると、話題の店はなかなか開拓できません。
わたしは人見知りなんで、初めての店には、なかなかいきなり入れません。
京都人はたいがい我が儘で、今日こんなもん食べたいなあと思ったら、その日に食べたいんで、何か月も前から予約して行くのは、ほんまに苦手です。そやから、“ 予約の取りにくい店 ” にはなかなか行けへんのです。
そういえば、東京の人は、行ったことがある店を「知ってる店」と言わはるようですが、私らが「知ってる店」と言うのは、そこの家族のことも、ええことも悪いことも、大将の女癖のことも知ってて、初めて「知ってる店」言うんです。

たまに馴染みの店のカウンターに坐って、まずはハーフ&ハーフを呑んでからマスターと、たわいもないことをしゃべって帰ります。そこのカウンターでよう逢う人でも、お互いに名乗り合うこともあらへんので、長いこと名前も知らんで、何をしてる人かわからんままに、今に至ってる人もいてはります。
そこでは、肩書が大事にされることもないのがええんやろうね。
私は名刺に、いろんな役職やら肩書やら、これでもかと書き込んでいる人は、どちらかと言えば苦手なんです。
もうこの歳になったら、気を使わんと好き勝手にいこうと思ってます。
うちの人には、「昔から好き勝手にしてるんとちがう?」と言われてますが・・。

Date 2017.07.24

#70 伏見人形

以前に、飛騨高山の街をぶらぶら歩いていた時のこと。
とある骨董屋さんのウインドウで、牛の土人形を見つけました。
私は丑年で、「丑年は家につくと言われて、家の仕事を受け継ぐんやで、その代わり、孤独に人生を終わることはないけどな」と言われたことがあって、その通り、家業を受け継ぐことになって、今に至っています。
その牛は、なかなか堂々とした作りで、不敵な面構え。もしかして伏見人形やないかと思い当たりました。
伏見人形は、安土桃山時代から、京都の伏見稲荷大社の門前で作られていて、全国の土人形の元祖やと言われています。幕末から明治にかけては、窯元が50軒余りもあったそうですが、今では、1軒のみになっているようです。
飛騨牛の焼肉屋さんのウインドウに飾られそうになっていたのを、そんなら生まれ故郷の京都に連れて帰ってあげようと、譲り受けました。
今作られている伏見人形と並べてみましたが、この昔の牛は、高村光太郎の詩をほうふつとさせる、さすがの貫禄です。

牛は後へはかえらない
足が地面へめりこんでもかえらない
そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く

牛は自分の道を自分で行く

私自身は無為徒食に年を重ねているだけで、こんな貫禄になられへん。
今更ですが、つらいとこですなあ。