「一澤信三郎帆布」の前身である「一澤帆布」は、信三郎の曾祖父にあたる一澤喜兵衛がミシンでカッターシャツやちょっとした道具入れを作ったところから始まります。
そこから、帆布の袋を本格的にこしらえて店の土台を築いていった常次郎、登山用ザックやテントで一澤帆布の名を一躍有名にし、若者や観光客にも帆布かばんを広めていった信夫、さらに職人の丁寧な手仕事を守りながら、新しいデザインやユニークなアイデアで時代の風を吹き込んでいる信三郎へ、脈々とブランドのDNAを受け継いできました。
私たちのかばんを手に取られたとき、ふっとこんな歴史があったことを思い出していただければ、また違った味わいが見えてくるかもしれません。
嘉永6年(ペリー来航の年)に生まれた初代の喜兵衛は、風変わりで、新しいもの好きで、それはハイカラな男でした。当時では珍しかった洋服や帽子を身に着け、西洋洗濯と呼ばれたクリーニング店を開業し、トランペットやクラリネットなどの楽器を使った「京都バンド」の活動など、とにかく“舶来もん”が大好き。
しかし好奇心旺盛で行動力は抜群でしたが、商才はあまりなかったようです。
時代に早すぎたこともあって、唯一残ったのがミシン仕事だったのでしょう。
二代目の常次郎は初代と違って、真面目で職人肌。洗濯やミシンの仕事を器用にこなしました。「ええ仕事せなあかん。丈夫なもん作らなあかん」が口ぐせだった常次郎は、帆布を使って職人用のかばんを作り始めます。うちに残っているかばんのなかで一番古いのは明治末期のものですが、これが今のトートバッグの原型になっています。そして昭和のはじめ、アメリカから最新型のシンガーの工業用ミシンを購入。1,000円で家が建つ時代に、400円という高価なミシンでしたが、本格的に厚い帆布が縫えるようになりました。左官屋さん、大工さんなどの道具入れ、薬屋さん、牛乳屋さん、酒屋さんなどの配達袋を作り、常次郎考案の一澤帆布製のかばんは急速に広まっていきました。この頃は屋号や製品名を印刷したかばんを自転車にかけて走ると、かばんが動く広告塔になったのです。
戦中から戦後の激動の時代を生きぬいてきた三代目の信夫は、茶目っ気たっぷり、クリエイティブな感性あふれる人物でした。ジャズやクラシックを聴き、骨董や絵画を愛で、おしゃれ好き。真面目な父の常次郎よりも、ハイカラな祖父の喜兵衛に似ていたのでしょう。一澤帆布の仕事は守り続けてきたものの、社員は日給月給制、経営に関しては大雑把だったようです。戦中は海軍のハンモックや大砲のカバー、零戦の搭乗員用のかばん、そして戦後すぐはリュックサックを作り、昭和20年以降はキスリング(帆布製の登山用大型ザック)によって、一澤帆布は登山用品のトップブランドへとのぼりつめます。しかし、そこで登山用品だけに特化しなかったのが信夫のバランス感覚。ナイロンなどの化学繊維が台頭するとともに登山用品の扱いは減り、代わりに丈夫で使い勝手がよく、ファッション性にも優れた帆布かばんに興味を持つ若者が増えてきました。また信夫は1ドル360円だった時代にアメリカ、ヨーロッパ、エジプト、トルコ、北欧などに海外旅行へ出かけ、世界の一流品を見て歩いていたようです。
昭和24年、京都東山に男三人兄弟の次男として誕生。小さいころから住まいが仕事場だったため、常にミシンの音を聞き、帆布のにおいを感じる暮らしをおくっていました。学生時代から家業を手伝うことも多くありましたが、「自分の知らない外の世界へ出てみたい」と卒業後は約10年間、大阪の新聞社に勤務。その後、1980年に家業へ戻り、働きやすい社内環境や現代的な経営へと改善していきます。
家業を継いだ当時は社員わずか10数名の零細企業でしたが、「広く一般の人に向けて、使い勝手のよい、丈夫なかばんを中心に作っていこう」と老若男女さまざまな人が使える帆布かばんを考案、色数や種類も増やし、いつの間にか社員も70人を超えました。
私たちは相変わらずミシンをカタカタと鳴らし、上質な帆布素材を使ったかばんを作り続けています。
下請け業者や関連会社も持たず、製造直売を貫き、お客さまの顔の見える商いのスタイルは今なお変わりません。
無地の綿帆布の製品には『信三郎帆布』、柄を染めた帆布と麻帆布の製品には『信三郎布包』、昔ながらの職人用かばんには復刻した『一澤帆布製』のネームをつけて3ブランドを展開。「わぁ懐かしいなぁ」と思っていただけるようなかばんも、「なんだか新しい」と感じていただけるようなかばんも、それぞれの風合いと表情をお楽しみいただけると思います。